遭難

毎日必死に今の生活を保っても、仕舞いには何にも残らないという虚しさに拍車をかける年末年始の御目出度いムードが子供の頃から嫌いだ。
1年は365日だと勝手に思い込んでるけど、そもそも人生に日付けなどという区切りはなく、ただただ時間が止めどなく流れているだけで、カレンダーなんてものを勝手に作って、暮らしに目処を立てる為の都合の良い目盛りに過ぎない。
しかしそれがなければ、時間のうねりに漂う我々は、自分が今いる座標すら測定できないわけで。

毎日同じことの繰り返しなんて絶対嫌だと思って、自ら荒波に突っ込むような暮らしを送ってきたのに、いつのまにか夕凪の暮らしを望む様になっていた。
だけど一度航路を逸れたが為にボロボロになってしまったこの船では、穏やかな波でも沈没しかねない。
海図も羅針盤も与えられずに、人生という時間の海に放り出されてもうじき27年、未だにうまいこと舵が利かず半遭難中。
今年もなんとか沈没は免れたいので、面舵も取舵もいっぱいいっぱいで。

人生の味覚

今年もあと2ヶ月で終わるだなんて恐ろしいこと、誰が信じられますか。

年を取ると月日が経つのが速いとよく聞かされていたけれど、いくらなんでも速すぎる。富士そばのサーブくらい速い。

そんな速すぎる時間の激流に、心は研磨されて丸みを帯びるというよりは、どんどん鋭さを増し、尖ってきているような感覚だ。

 東京に出てきて5年が経って、振りかえれば色々な事があったようで無かったようで、味が濃いようで薄いような、まるで"ういろう"のような曖昧な生活を送ってきた。

味気ない"ういろう"よりも、濃厚でしつこい"ようかん"のような生活を送りたいものだ。目指すからには"とらやのようかん"だ。俺は貧乏人でこそあるものの、実は高級思考なのである。

そのまず第一歩として、人生初の女装をした。

趣味が女装という、前世で大罪を犯した業(カルマ)としか思えない地獄のような友人いわく「女装は退屈な日常におけるスパイス」だそうだ。

常日頃からイベントなどで友人達が楽しそうに女装する様を見ていて、ここまでブッ飛べるのは羨ましいと思っていたので、ハロウィンという浮かれ情事にかこつけて、俺も挑戦してみることにしたのだ。

かくして、曖昧で味気ない毎日に刺激を得るために、俺はメイク道具一式を揃え、ヅラを買い、ドレスを取り寄せた。

いかんせん方向性を間違えているような気もするが、これも"とらやのようかん"になるためのひとつの手段なのである。変態おじさんではない。

結果は、惨敗。

女装をするというのは、想像以上に体力も気力もカロリーも必要で、友人達のタフさに脱帽した。

俺は安酒により早々に記憶を失い、路上で気絶し、駅のホームで血が混じったゲロを噴射した。

心は尖ってても、身体がその鋭利さについていけず、人生は有限だというさらに鋭利な事実を突き付けられる俺なのであった。

 

嗅覚

「面倒くさい」に征服されつつある今日この頃。

何をするにも「面倒くさい」が俺の行動を制限する。

俺はこの性格のせいで飽きっぽくなんでもかんでも中途半端で投げ出してしまうようになってしまった。

思えば高校に行くのが面倒くさくなったのが発端かもしれない。

同級生とは馴染めず、勉強も煩わしく、親ともうまくいかず、色々な要因が重なってそれはそれはそうとうな面倒くささだった。

結局高校は2年でドロップアウトしてしまうんだけど、今思えばこれが全ての始まりだった。

最後まで何かをやり遂げたということが少なく、ある時急激に面倒くさくなってしまう。

それについて非常に危機を感じているんだけど、改善しようにも途方もない面倒くささによってそれは阻まれる。

怠惰の沼にどっぷりと嵌まってしまっている俺は、その内に生きることも面倒くさく感じてしまうような気がして、ときどきえもいわれぬ恐怖に襲われる。

しかしそれを考えるのも段々と面倒くさくなってきて、少しするとどうでもよくなる。

「面倒くさい」と思うことで、自分の心に一種の防衛線を引いているのかもしれない。

ネガティヴに考えすぎる思考に対して、脆すぎるメンタルが防壁を築いているのだ。心が怠惰に逃れて鈍感になろうとしているんだと思う。

この面倒の匂いに敏感な嗅覚は、心に傷を負わせない為に発達したのかもしれない。

しかし、結局それは現実から逃げているだけで、何の解決にもなっていないわけだが、その先のことを今考えるのは、ああ、面倒くさい。

空想と錯覚

元々存在しえない物が、あたかも存在しているように錯覚することがある。

それは、我々が"未知"という最大の恐怖に打ち勝つ為に、名前をつけて既存の物にしなければならないが故に生まれた錯覚だ。

昔の人が天災や自然現象を神格化して崇めることによって"神"や"妖怪"という存在が生まれたように、この世は人間の空想によって創造された"錯覚"で溢れている。

時に、その"錯覚"が独り歩きして、人間の手に負えない物になってしまうことがある。

現代において、インターネットと我々は切っても切れない関係になっている。

人それぞれだろうが、現代人は日常の大半をネットの世界で生きていると言っても過言ではない。

しかし、そのネットの世界は"錯覚"である。

現実に存在しない、触れられない、目に見えない世界が、あたかも存在しているかの様に感じているわけだから。

その錯覚の世界にすがり、破滅する人や、救われる人もいる。

錯覚が現実に干渉しているのだ。

決して交わるはずのない現実と錯覚が混在している特異な世界に我々は生きていることになる。

錯覚が現実に影響を及ぼしたら、それはもう"錯覚"ではなくなってしまうのではないか。

今現在も宗教戦争によって多くの人々が命を落としているが、宗教も元々は人間の空想によって創造された錯覚だ。

神は人間を造ったとされているが、実は人間が神を造ったのだ。

神は人間の"錯覚"から生まれる。

現代の最大の"錯覚"と言えるインターネットは、次世代の神へとなり得るのか。

 

 

 

社会を分解してみれば

たまにホモの文化というか、ホモである以上皆似たような生き方になってしまって、大きく言えば"ホモの盛大な内輪ノリ"がたいそう気色悪く感じる事がある。

しかし、自分もその内輪の一員なんだな、しょうがないなってあきらめてしまっている所もあって、ホモあるあるに当てはまることを当たり前にやってしまってる自分がいる。

ただの"同性愛者"だけじゃ完結できないのが社会なわけで。

それはLGBTに関わらず、社会というフレームの中でしか生活できない人間だからしょうがないことなんだけど。

水槽の中で泳ぐ金魚の様な小さな世界で生きてる感じが嫌だと常々思うのだが、かといってそこから大海へ飛び込む気力も労力も湧かない。年を重ねる度に文字通り死んだ魚の目になっていってる気がする。

そもそも淡水魚が海水魚になれるのかすらもわからないわけで。元々の生まれ自体が違ってるかもしれない。

夢や希望や気力を削がれて、みんな同じような顔になるのを一番嫌がっていたはずなのに、ソレに服すことが何よりも楽な事に気付いてしまった。

社会の歯車の一部になっている今を嫌悪しつつも、それに甘んじている現状。

我々は人間である以上、どんな小さなコミュニティでも社会を形成し、その中でしか生きていけない。

どう足掻いても人間である以上は社会という機械の一部品なわけで。

欠陥のない完全な部品になることが世間一般で言う"大人になる"と言うこと。

未だに大人になりたくない俺のような部品は、どんどん欠陥が出ても支障がでない末端の部位へと追いやられる。

逆に良い働きをする歯車は、替えが効かないから錆びないように良質の油を注される。

社会という機械を機能させるための歯車として、忠実に機能する。

 誇大な夢や希望を捨てて、社会を形成するための小さな部品として欠陥なく機能することが"大人になる"と言うことに気付いてしまった。

俺は、そんな生き方が嫌だ。

自分の為だけに生きていきたい。

面倒くさいことは全部誰かに押し付けたい。

俺は、社会の末端の部品として適当に機能したり、機能しなかったりして生きていたい。

そう生きてきたお陰で、今では立派なクズとして日々を送っている。

クズはクズなりに、思ったよりも気力も労力も思考も使う。

社会の忠実な歯車である"大人"とは、また違う事を考えなければならないからだ。

自分が望んだはずの生活なのに、計り知れない不安や、周りに取り残されてるような孤独に耐えなければならないからだ。

どこにも属さずに生きるのは、どんなに孤独なんだろう。

孤独に打ち勝つことができれば、きっと社会なんてただのくだらないガラカタに見えるのに。

人間の天敵は孤独で、どんな超人でも孤独には勝てない。

だから似た者同士集まって、クズのクズによるクズの為の社会が、また形成される。

この世は無限地獄。