社会を分解してみれば

たまにホモの文化というか、ホモである以上皆似たような生き方になってしまって、大きく言えば"ホモの盛大な内輪ノリ"がたいそう気色悪く感じる事がある。

しかし、自分もその内輪の一員なんだな、しょうがないなってあきらめてしまっている所もあって、ホモあるあるに当てはまることを当たり前にやってしまってる自分がいる。

ただの"同性愛者"だけじゃ完結できないのが社会なわけで。

それはLGBTに関わらず、社会というフレームの中でしか生活できない人間だからしょうがないことなんだけど。

水槽の中で泳ぐ金魚の様な小さな世界で生きてる感じが嫌だと常々思うのだが、かといってそこから大海へ飛び込む気力も労力も湧かない。年を重ねる度に文字通り死んだ魚の目になっていってる気がする。

そもそも淡水魚が海水魚になれるのかすらもわからないわけで。元々の生まれ自体が違ってるかもしれない。

夢や希望や気力を削がれて、みんな同じような顔になるのを一番嫌がっていたはずなのに、ソレに服すことが何よりも楽な事に気付いてしまった。

社会の歯車の一部になっている今を嫌悪しつつも、それに甘んじている現状。

我々は人間である以上、どんな小さなコミュニティでも社会を形成し、その中でしか生きていけない。

どう足掻いても人間である以上は社会という機械の一部品なわけで。

欠陥のない完全な部品になることが世間一般で言う"大人になる"と言うこと。

未だに大人になりたくない俺のような部品は、どんどん欠陥が出ても支障がでない末端の部位へと追いやられる。

逆に良い働きをする歯車は、替えが効かないから錆びないように良質の油を注される。

社会という機械を機能させるための歯車として、忠実に機能する。

 誇大な夢や希望を捨てて、社会を形成するための小さな部品として欠陥なく機能することが"大人になる"と言うことに気付いてしまった。

俺は、そんな生き方が嫌だ。

自分の為だけに生きていきたい。

面倒くさいことは全部誰かに押し付けたい。

俺は、社会の末端の部品として適当に機能したり、機能しなかったりして生きていたい。

そう生きてきたお陰で、今では立派なクズとして日々を送っている。

クズはクズなりに、思ったよりも気力も労力も思考も使う。

社会の忠実な歯車である"大人"とは、また違う事を考えなければならないからだ。

自分が望んだはずの生活なのに、計り知れない不安や、周りに取り残されてるような孤独に耐えなければならないからだ。

どこにも属さずに生きるのは、どんなに孤独なんだろう。

孤独に打ち勝つことができれば、きっと社会なんてただのくだらないガラカタに見えるのに。

人間の天敵は孤独で、どんな超人でも孤独には勝てない。

だから似た者同士集まって、クズのクズによるクズの為の社会が、また形成される。

この世は無限地獄。